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たこぶ・ろぐ-日本一お気楽な48歳-

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2007年 03月 20日

三度目の挑戦

ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」を借りたのは3回目だった。過去2回、借りたけど読まれへんかった。最後までは。
三度目の正直で、なんとか最後まで読んでんけど。いやあなんというか、読みにくい話であることは確か。これが最高傑作なのか。ううむ。考えてしまうなあ。

クラリッサ・ダロウェイがパーティーを開く、その朝からパーティーまでの一日。その間に起こる出来事。といっても、たいしたことが起こるわけではなく、だいたいは登場人物のモノローグがつづられるのだな。夫、昔の恋人、かつて好意を抱いていた女性、どの人もどの人も、まあなんと脈絡もなくいろんな物思いにふけるものだ。いや、だいたいのひとはちょっとした時間に、自分の過去の出来事思い出したり、「あのときああしていれば」とか考えて、そのあとを想像したり、そういうことを繰り返して時間をつぶしているものかもしれないけれど。
でもそれはよくあることとして、あるいは大した興味もわかないもの、誰にでも起こっては消えていくもので、そういう時間(物思いにふけった時間)を過ごしたことすら忘れてしまっていたりするのだな。
ところが、ヴァージニア・ウルフは、それらすべてをだらだらとした文章で文字にしていったのだ。
おかげでこちらは、本人も気づいているかどうかも分からない話につきあわされることになる。それが興味のある話やったらええけど、どおってこともない話やったら、そらもう退屈な時間を過ごすことになるのだなあ。

退屈な時間を過ごす! これこそこの小説の楽しみ方の一つなのかも。

いや、急に思い立ったことを書いてしまった。
もう一つ大事なこと。この話はダロウェイ夫人がパーティーを開くことと、戦争から帰ってきて精神的にダメージを受けているセプティマスという人物のはなしとか、なぜか並行して書かれているのだ。なんで? この人はダロウェイ夫人の、いったいなんなのだ?
という疑問がずっと解けないまま(二人の接点は、パーティー用の花を買いに行ったクラリッサが公園で休んでいるセプティマスをちょっと見かける、という程度だ)、話は進んでいき(というより、時間が経っていき)、そしてセプティマスは自ら命を絶ち、そのうわさ話をクラリッサはパーティー会場で聞く。
ただそれだけのことなんやけど。なにか不思議なつながりを感じさせるんやなあ。不思議。

実はこの小説を読んでみようと思ったのは、映画の「めぐり逢う時間たち」を見たからなのだ。あの映画の中心になっている話が「ダロウェイ夫人」だった。
そういう先入観が働いてるからやろう。クラリッサ・ダロウェイをついつい作者に(映画のニコール・キッドマンに)重ねて読んでしまっていた。そしてあの映画の不思議な感覚が見事によみがえって(特に終盤になって)、この物語の不思議さを改めて感じたのだ。まるで関係のない人間同士のつながり。分かり合えるようで分かり合えずそれでも分かり合おうとするのだけれど結局はやっぱり違う人間同士でしかしまた共通の感覚を持つことができそうな気がして・・・・・というのがどんどんつながっていくような気がする。

このだらだら感と、人の心の奥底までくみ出そうとする文体を楽しめるようやったら、面白いと思えるのかも。

ああそうそう、「文体」で思い出したけど。この本(角川文庫)は2003年に出版されてるンやけど、訳は1960年だかに訳されたままなのだと。それはちょっとねえ。いかにも「昔の訳」というのが所々に見かけられたよ。初っぱなに「フランス風の窓」なんていうのがあったしなあ。
せっかくやから、新しい訳を出してほしいところなんやけど。やっぱり難しいのか。

by tacobu | 2007-03-20 00:06 |


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